鼻くそポイ捨て機の映画日記

映画見ておもったこと。ネタバレします。

みた

50回目のファーストキスママレード・ボーイ見た

ママレード・ボーイはなんかようわかんね〜原作は3回読んだけど原作でもチンプンカンプンなことが多かったのがさらにチンプンカンプンになってしまった印象。ぶっ飛んでんな〜という感じ。
そんなちょい齧りするぐらいだったら先生と親友の恋愛話出さなくても良くない?主人公にだけフォーカス当ててても十分だったと思う。全部に中途半端に手を出そうとするから尺が足りんのかようわからん印象に。急に知らんおっさん出てきてこいつ何?みたいな感じもあったしね。
後半のお互い好きだけど別れなきゃっていうところは切なさMAXですごい良かったし旅行中の演出は泣いた。あれはスマホを使ったいい演出…旅行自体の思い出ではなくて、"恋人としての"思い出を残したいんだって分かって切なくなった。
全体的には薄くて、いやお前ら顔がええもん同士やから好き合っただけやろ?となった。好きになるエピソードのパンチが弱い。


50回目のファーストキス(リメイク版)はめっちゃ笑ったし泣いた。むせび泣きすぎて隣で寝てたともだちが起きた。
ちょくちょく挟んでくるギャグとかもくすっと笑えて面白いし泣くシーンもしっかりあったけど印象としては薄い。
純愛であるし、運命の恋ってこんなに身を焦がしたり尽くしたりなんだりかんだり、色々とあるんだなと思ったしハッピーエンドでこっちもハッピーやねんけど、とにかく印象が薄い。見たその時限りの映画になってしまってる。(見たその時限りでもこんなに心を揺さぶる映画はすごいと思うが)
何度も何度も何度も同じセリフを言うルイという演出で本当に記憶がないんだっていうことが分かるのと、少しずつダイスケに心の奥から惹かれているっていうのが分かるのは凄いと思った。長澤まさみと演出が良い。
ただ今こうやって感想を書こうと思ったときに、何を書けばいいのか思いつかない。全体的にきれいにまとまっているせいか印象が薄い。そんな感じ。

みた

アデル、ブルーは熱い色みた。

イケメンを捕まえるもストレートでいること?に対して疑問を持ち秒で別れる。それで運命の出会いであるエマに突っ走っていく話。

アデルの瞳の揺れがすごい。どういう感情を今抱いているのだろうと色々と考えさせられる。光にあたるとキラキラ輝いたり澄んだりしてとてもきれいで惹き込まれる。風景も息遣いも表情も、全部がアデルの気持ちを表現している。言葉は少なくてもいい。こういうのが映画だよな〜〜〜!!ってめっちゃ思った。
音と映像で観客を引き込む。セリフだらけでも魅力的な映画はあるけど、私はこういう、間だとか視線だとか、そういうもので主人公の感情を推し量りたい。セリフにされると主人公の気持ちはそこで完結するから私の思考もそこで止まってしまう。想像力を駆り立ててくれる映画が好きだ。

二人の気持ちを目と目で伝えあって(決して言葉では表現しないところが好きだと思った)盛り上がってはじまるベッドシーンがすごすぎてびっくりした。すごいな〜と思うのと同時に純粋な愛の形って感じがしてすごくきれいだなと思った。なんていうか、当たり前なんだけどAVとは全然違うと思った。土俵が全く違うから比べるのも間違ってるけど。性のはけ口であるAVと愛情の形であるセックス。全然違う。本当の愛のあるセックスはこんなにきれいなのだなと思った。

けど、ラスト1時間で怒涛の展開。
どうして?エマがキスやセックスを断ったから?エマが女と仲良くしてたから?寂しかったからってなんなんだろう。寂しかったら浮気してもいいのか、男と寝てもいいのか、キスしてもいいのか、しゃぶった口で恋人にキスしてもいいのか。
エマの怒りはそのとおりだと思う。男女で男に浮気されるよりもキツいなと思った。レズビアンであることを否定されたような気分になるんじゃないか。運命の愛だと思ったのにあっさりと裏切られて、その傷をぶつけるすべもない。アバズレと罵っても家から追い出してもついた深い傷はなにをしても消えない。致命的に傷付けられたのにそれでも愛してるから許してしまう。
愛って難しいな。いろんな形があると思った。3年後のエマは柔らかい愛情に包まれて、幸せに暮らしている。でもアデルのことは忘れられないし愛してる。狂ったように求め合いアデルしか見えなかった日々は確実にエマの中で生きていて、その愛は一生死ぬことはない。展示会で会ったときにアデルに向ける瞳が愛を物語っているのがひどく切ない。
エマの心の中だけではなくてエマの作品にもアデルが生きている。どれだけの大きな愛なのだろう。自分はこうも人を愛せるだろうか。愛せないだろうな〜、無理だな。
愛の在り方にも様々な形があるけれど、これだけの大きな愛を抱えて一生を生きていかなければならないことは二人にとっていいことなのか悪いことなのか全くわからない。私も燃えるような狂うような愛を体験すればわかるのだろうか。

アデル、ブルーでは愛を口で語らない。背中や体や目で語る。そこがすごくすごく好きだなと思った。想い合っている二人の中ではそれで十分なのだろう。
だから浮気のあとに愛してる!て言ったりだとか、再開したときに愛してる?って確認をとらなきゃいけなかったんだろう。分からないから。二人の思いが通じ合っていないから。めちゃくちゃ酸っぱいな。

みた

永遠に美しくを見た。

 

開始30分ぐらいはなにこれ!?!?!?と思ったりしたしヘレンがかわいそうすぎて泣きそうになった。

今まで付き合ってきた男を全員取られて婚約者まで取られて…辛すぎる。私なら一人取られた時点で絶対縁切るのにとさえ思った。(そもそも取られる男がいないが)それでも親友の皮をかぶってたのは女の意地だろうか。

心を完全に壊してしまったのが見てて辛かったけどその後の展開が完全にコメディでしかなかった。

描写的にグロいな〜ってところもあったけど昔のCGだから笑える。今のCGだったらもう見れてなかったかもしれん。


女の意地vs女の意地に挟まれるナヨナヨ男の映画

どうしてもナヨナヨ男に腹立つな〜〜〜ナヨナヨ男が自分の意思をはっきり持ってたらこんな争いには発展しなかったと思う。映画の主題はそこじゃないけど。


最近の整形だったりアンチエイジングだったりの過度な美容への意識への皮肉が強く感じた。皮膚は剥がれ落ちてペンキに頼らないと色さえ保てない、生前(?)よりももっと醜くなってしまった。最後はバラバラに壊れてしまってもなお生きている。

永遠に美しくなんて生きられないとラストシーンで突きつけられている感覚。


対してなよなよ男の方は老いを受け入れそこからの人生を歩んでいく。牧師は美しい生き方だとかなんだとか多分そんなことを言ってた。記憶の中で永遠に生き続けると言ってた。


人は衰える。衰えは醜いことだろうか?

死ぬことは悪いことだろうか?

過度に抵抗することこそが醜いことではなかろうか。生まれてきた以上、必ず死ぬ。死ぬけれど、どう生きるかが重要なのではないか。外見に執着することは本当に美しく生きるということだろうか。

みた

LALALANDみた

セブがミアのためにいろいろと諦めたり妥協したりしてて見てて辛かった。ミアのためを思って「やりたくもない音楽」に染まった。「やりたくもない音楽」のためにミアとすれ違って喧嘩して別れた。そしてそれぞれの道へ。

ミアは自分そのものでぶつかっていたけど、セブは妥協の道を選んだ。店を持つことは叶ったけど、そこにミアはいない。ずっと愛してるとまで言った人を失う、人生において1つの妥協。ミアとの未来を描くシーンでは、ミアについてパリに行ってた。それで一緒にジャズバーに入る。即ちセブのお店は持ててないということ。恋愛を妥協すれば夢が叶い、夢を妥協すれば恋愛が叶う。ミアが対照的にすべてを手に入れていたところ、見てて本当に辛い。

二人にとって一番大切なものとはなんなんだろう。
本当に夢なんだろうか。夢が本当に大切なのか?一番?どうなんだろう。考えても考えてもわからない。でももう一回見たいとは思わない。胸が痛い。

みた

アイ・フィール・プリティーを見てきた。

 

私は努力をしていないタイプの顔のでかい、ずんぐりむっくりのブスである。かわいいなど言われたことがなく生きてきた。かわいいと言われることがあればそれはマスコット的な「かわいい」であり、賞賛する意味合いの「かわいい」は言われずに育ってきた。

男性から認められたこともない。唯一私の事をかわいいと言ってくれた元カレはストーカー気質で、どうにもうまく愛せなかった。それは彼の「はるこを愛していると言っている自分に酔っている感」をうまく呑み込めずにいて、かつそれを言語化できなかったためである。別れて早3年か4年が経過するが、今やっと言語化できたし、彼の「かわいい」「愛している」をうまく受け止められなかったのは、言語化できなかったとはいえきちんとそれを頭のどこかで理解していたからだと思う。

元カレには自分に酔うために利用され、合コンに行っては盛り上げ要因にされ、ちょっと気持ち悪いおじさんにセクハラされ、かわいい女の子のラインを聞くための足掛けにされてきた人生である。

 

誰も褒めてくれぬなら自分からかわいいって言っちゃおう!という精神で「いや私かわいいやろ(笑)」とぶっこんでみたものの、反応は芳しくない。私はエスパーではないが、彼らの頭の中が容易に読み取れる。「なにブサイクがブーブー言ってんだ」である。

その反応を見ても一度鞘から抜いた剣を引っ込めることは容易ではない。私のプライドはチョモランマ級だからだ。私はその剣を手に持ったまま、2年か3年は生きているのである。むなしい。

 

主人公はデブ・ブス・プライドチョモランマ。いや私かよ。

少しでも体を引き締めようとジムに通ったところ、頭をバカ痛く打ってしまい、自分がすっごくスリム美女に見えるようになってしまった(見えるようになってしまっただけ)女である。

 

セリフは曖昧ではあるが、

「男は顔しか見てない!!」という悲痛な叫びが痛かった。

主人公が自分の外見をけなすような、自信のないセリフを言うたびに胸が痛くなった。自己肯定感があまりにも低い。でもそれは仕方のないことなのである。小さいころから植え付けられた外見のコンプレックスはケバブのように自信をそぎ落としていくからだ。婚活市場に行けばなおさら。

私も現在婚活というか恋活というか、まあ色々頑張っているのだが、びっくりするほど男性に相手にされない。少し連絡先を交換してみようということになって連絡できない。自分に自信がないからである。

 

見れば見るほどに胸が痛い作品である。

でもしっかりと笑わせてくれる。主人公が自信満々になってからは笑いのオンパレード。

でも自信を身に着けた主人公は代わりに大切なものを失いかけた。なんていうか、そこまでする?と思っちゃったけど、多分「今まで注目を浴びてこなったがゆえに、他人(友人とはいえ)に男の興味が向くのが許せなかった」のか。本当に厚意だったのか。いやそれはないな。


美しくなることはいいことだ(主人公自身は外見変わんないけど)。自信を持つことだって凄くいいことだ。でも本当に大切なものを見失ってはいけない。失ってからじゃどう頑張っても取り戻せない。それは自信を持つことよりも、美しくなることよりも、遥かに難しく不可能なことだ。



自信を持つことが大切だと教えてくれたいい作品。自分は自分のままで、自分を愛してあげることが何よりも大切だと教えてくれた作品。自分を愛せない人は人に愛してもらえない。まず自分を愛さなければならない。

自分の何もかもを受け入れて、それでもなお自分を愛することが幸せへの第一歩なのだろう。はるこも頑張ろう。

みた

トゥルーマンショーみた。

トゥルーマンの人生って人々の娯楽のためにあったのか?トゥルーマン自身は本物だってあの眼鏡は言ってたけど、人生全部が作り物でできてるのに本物もクソもなくない?と思った。
あの眼鏡は神になろうとしたのか?
一人の人間の人生を操って何になろうとしたんだろう。まずなんでこういう番組を作ろうと思ったのか?この後に作中の時間軸からしばらくしたところにトゥルーマン2とか出てくるのかな。何人の人生を弄ぶつもりなんだろう。

名前がトゥルーマンっていうのが皮肉すぎる。
偽物だらけの世界。親も妻も親友も偽物、天気も偽物、お隣さんも家も全部全部偽物。その中でたった1人の本物の人間。

最近だとSNSとかもあって人の人生をあっさり見れるようになってる気がする。
ツイートで日常のことを呟いたりインスタで写真乗っけたり、その全部が全世界に公開されてる。
インターネットリテラシーかちゃんとしてインターネットと人生をきちんと分けられてる人ならいいけどそれができない人はセルフトゥルーマン状態になっちゃうな。怖。
自分で公開してるぶん逃げ場がない。
怖いな〜ほんまに。気つけよ。

みた

アレックス・ストレンジラブみた。しょっぱなからネタバレする。

 

2018年の映画らしい。めっちゃ最近のやつ。

途中までは男男女で男男でくっつくやつやろ~~~まあ見とけよ~~~てなってたし実際予想通りだったけどなんか思ってたよりテーマが重たかった。

 

会話はテンポがいいし冗談交じりすぎてマジなん?みたいなノリになってしまうけど、実際のところはアレックスがゲイだという事をカムするまでの重い話だった。でも最後までノリ自体は軽かった。

 

アレックスの根源には幼少期の自分がゲイだってバレて(?)からかわれるシーンが確実にあって、そのせいで自分を抑圧してた。抑圧して抑圧して抑圧してその中で成長して、自分はストレートだと思い込もうとしていた。この時点で涙。

クレアのことも恋人って自分で言ってるシーンはなかった。友人とか親友とかそんなんばっかり。愛してるし大切だし失いたくないけど、どうしてもちんこはたたない。自分がゲイだとは認めたくない。クレアを失いたくない。両面で揺れ動く気持ち。今まで抑圧してきたし、このままストレートとして生きていけると思っていた所に被さってくる女でちんこがたたないという現実に打ちのめされるアレックス。

最初見てるときはなんやねんこいつと思ってたけどアレックスが自分はゲイだって言ってからはそのシーンも納得できた。

 

結局クレアも傷つけたしエリオットも傷つけた。アレックス自身もたくさん傷ついた。私も泣いた。傷ついて傷つけて大きくなるティーンたち…めっちゃ青春だった。

 

誰も悪くないこの世が悪い何もかもこの世が悪い何もかも偏見だらけのこの世が悪い

誰が普通とか決めたんやろ誰がストレートとかって決めたんやろ。ていうかストレートってなんやねん。曲がっとったらあかんのか。曲がってたらあかんって言うやつはなんであかんのか考えたことあるのか。真剣に腰を据えて何もかもの一切の偏見を拭い去って考えたことがあるのか。その偏見が、普通という言葉が誰かを傷つけてるとか思わないのか。その考え自体がねじ曲がっているとは思わないのか。

 

人を傷つけてはいけませんと声高に叫ぶやつが同性愛者を普通じゃないからと迫害するのはどうして?同性愛者は人ではないのか。同性愛者も人です。同じような内臓が入ってて同じように血液が巡り、同じように思考を持ち同じように生きています。この世に愛だの恋だのがなければ迫害されることはなかったでしょう。

頭のかったい想像力思考力に欠如した人間に迫害され自らを抑圧せざるを得なかったアレックスのようにこの世にはたくさん、普通になろうとして自分の心を傷つけまくってるゲイがいるんだろうなあ。

 

普通てなんや。普通てなに。普通の定義とは?他と違わないことが普通であるならばこの世に普通などないのではないか。

全員同じ顔か?全員同じ性格か?全員同じ思考か?全員同じ趣味か?全員同じ服装か?全員同じ生活か?全員同じ学歴か?全員全部が全部同じなのか?どうしてそれらは大幅に違っていても許されて、だいたいのことは普通とされているのに、それが恋愛とかなんとか絡んでくると普通とされないん。どう考えても誤差の範囲やん。

例えば偏差値40の大学を出た人と偏差値60の大学を出た人がいる。この情報だけでどちらかが普通じゃないて判断する人ておるん?でもこれが性的思考の話になると違うやん。

女を好きになる女と男を好きになる女がいる。この情報になると前者が異常とされる。どうして?どっちも大枠では人を好きになってるやん。

偏差値も40と60じゃ全然違うのに大枠として大学を出てれば普通とされる時代。じゃあ大枠で考えたらいいんか?と思うとそうではない。

おかしいやんか。なんでなん。大枠でいくなら大枠でいけや。恋愛だけは別とかなんかよくわからんルールを勝手に追加するな。

 

ていうかそもそも誰が誰を好きになってもどうでもいいやろが。お前の人生それで潰れるんか。A♂がB♂を好きになってZ♂の人生がぼろぼろになるんか。ならんやろが。なんで人の好きな人に口出しするん。Z♂がもしY♀を好きになったとして、B♂がY♀をぼろくそに言ったら怒るやろ。なんでそれが同性同士なら許されるんや。異常とされてそれが許されること自体がおかしい。

 

普通を唱える人ほど普通を唱えさせられてることを自覚すべきであると考える。

普通って誰が決めたんとか考えたことあるんか。普通って誰がどうやって何を基準にして決めたん。人が多いからっていう理由だったらこの世では中国人のルールが適用されるはず。じゃあなんで世界的に適用されてないんか考えたことはあるか。

この世では、普通がなぜ普通か考えたこともない思考停止組の声が大きすぎる。

普通にしろって言ってるのって、私はバカですって大声で言ってるようなもんだと思う。私は思考する能力もありません、与えられた環境でぬくぬくと育ってきた恵まれたバカですってそんなハキハキ言ってて恥ずかしくないのかとさえ思う。

 

「普通」は悪い大人が、自分の都合のために決めたルールだと私は思っている。

思考を停止させてしまえば悪い大人のいいようになるだけなので、自分で物事の良し悪しを判断していく必要がある。

その思考・判断の上で同性愛が悪いと思えばその人にとって同性愛は悪である。思考判断の上でそのような結論を出している人を批判しようとは思わない。それがその人「個人」だからであり、変えられないものであるからだ。

しかし、「みんながそう言っているから」「みんなと違うから」の流されての同性愛批判は許すべきではない。思考を停止させ与えられた環境下でぬくぬくと生きることで傷つく人がいることを忘れてはならない。

 

これからはたくさんの人が自分で自分を傷つけずに生きていける素敵な世界になりますように。世界平和。