鼻くそポイ捨て機の映画日記

映画見ておもったこと。ネタバレします。

みた

Girlをみた。まだ公開中の映画だったので4,5行ほど職場の食堂の話を書いていた。下書きに眠らせている間に公開が終わってしまったので食堂の話は無駄になったがそのまま載せておく。

 

 

私は職場の食堂でご飯を食べている。食堂ではシチューにご飯、味噌汁というとんでもメニューがある。ちなみに味噌サバといったメニューの日はパンとご飯が選べるようになっている。シチューの日はご飯固定なのに。私には食堂のルールもメニューの意味するところも何もわからない。わからないが、それなりに食べている。

私が一番びっくりしたのはみんなバンバン野菜を残すということだ。たしかにうちの食堂の野菜はおいしくない。なんていうか、パサパサして、賞味期限間近のコンビニのスライスサラダって感じ。だけどみんなこんなに残すのか…衝撃的である。

 

 

Girlを見た。

トランスジェンダーの女性(体は男性)であるララがバレリーナを目指して世界屈指のバレエスクールに通う、という話である。

 

まずララは家族にトランスジェンダーであることを完全に受け入れられている。誰もララを男性として扱わない。ララを女性として扱い、ララの体を女にすべく思春期から医療機関に通っている。

 

私はトランスジェンダーの人が体を心の性に近づけることを治療と呼ぶことを好まない。それだと、どうしても体の性と心の性が離れていることが異常という感じがして違和感を覚える。本人からすればそれは異常なのだろう。自分の心は女なのについているものは男のちんこだったら混乱だってする。が、治療とはまた別だと思う。

彼・彼女らの体はそれぞれが生まれ持ってきたものである。心の性と違っていて、憎むべき対象であったとしても。治療というよりも、理想の自分に近づく過程である。努力だとか、そういう言葉のほうが正しい気がするのだ。

 

また、トランスジェンダーの人を体の性に合わせて紹介することも好きではない。体はあくまでも付属品である。だから、どうとでもいじくり回せる。それこそ整形するなりホルモンを入れるなり思うがままになんだってできるのだ。しかし心はそうはいかない。心はいくら外から誰かが矯正しようとしても無理である。ただただ、思いが抑圧されるだけだ。では性別は心に、変えられないもの、自分がそうであると思うものに合わせるべきではないのか?と思う。

だからこそ家族がララを女性として扱っていることが嬉しかった(嬉しいと思う時点で、これが当たり前ではない現実があることが悲しい)。

だけれども、スクールの女子は彼女を女子としては扱っていなかった。表面上はそう扱っているように見えても、彼女へ向けられていたのは奇異の目であったのだと終盤の女子会のシーンでわかって苦しかった。

 

家族の対応とスクールの女子の対応での対比で胸がざわついた。

体が男だと知らない人のところへ転がり込んで、体の関係を持とうとする。だけれども、その人はララの胸や性器に触れようとした。女子だけれども、女子ではない。体に触れられたら悟られてしまう。

好きだけどセックスはできない。

それがどれだけ彼女の心を傷つけたのだろうか。

 

すべてを思い悩んで、悩んで悩んで悩んで、結局ああいう行動に出たということが何よりもびっくりした。

早く女になりたいという気持ちがそうさせたのである。焦る気持ちを誰が植え付けたのか?

スクールの女子でもあり、同じアパートの好きな男でもあり、ララでもある。

 

自分の体を傷つけることがどれだけ勇気のいることなのだろうか。もしかしたら出血多量で命を失うかもしれない、痛みのショックで気絶してしまうかもしれない、そこからいろいろと感染してしまうかもしれない、彼女の願う手術ができなくなるかもしれない。

様々なリスクがあった。それでも行動に移した。体が男であるという事実が、どれだけ彼女を追い詰めたのか。それを思うと胸が苦しかった。

 

ラストシーンでの清々しいまでに切った髪。彼女が新しい場所にたったということなのだろう。体がどうなったかはわからない。バレエも続けていくのか、恋はどうなったのか、なんにも分からないが、彼女は一つ大きくなった。それが分かる最後であった。

ラストシーンの笑顔が目に焼き付いている。美しかった。何もかも諦めたわけではなく、受け入れてふっきれたような、そんな笑顔。

どうかララのこれからの人生が良いものでありますように。そう願わざるを得ないラストであった。