鼻くそポイ捨て機の映画日記

映画見ておもったこと。ネタバレします。

みた

アデル、ブルーは熱い色みた。

イケメンを捕まえるもストレートでいること?に対して疑問を持ち秒で別れる。それで運命の出会いであるエマに突っ走っていく話。

アデルの瞳の揺れがすごい。どういう感情を今抱いているのだろうと色々と考えさせられる。光にあたるとキラキラ輝いたり澄んだりしてとてもきれいで惹き込まれる。風景も息遣いも表情も、全部がアデルの気持ちを表現している。言葉は少なくてもいい。こういうのが映画だよな〜〜〜!!ってめっちゃ思った。
音と映像で観客を引き込む。セリフだらけでも魅力的な映画はあるけど、私はこういう、間だとか視線だとか、そういうもので主人公の感情を推し量りたい。セリフにされると主人公の気持ちはそこで完結するから私の思考もそこで止まってしまう。想像力を駆り立ててくれる映画が好きだ。

二人の気持ちを目と目で伝えあって(決して言葉では表現しないところが好きだと思った)盛り上がってはじまるベッドシーンがすごすぎてびっくりした。すごいな〜と思うのと同時に純粋な愛の形って感じがしてすごくきれいだなと思った。なんていうか、当たり前なんだけどAVとは全然違うと思った。土俵が全く違うから比べるのも間違ってるけど。性のはけ口であるAVと愛情の形であるセックス。全然違う。本当の愛のあるセックスはこんなにきれいなのだなと思った。

けど、ラスト1時間で怒涛の展開。
どうして?エマがキスやセックスを断ったから?エマが女と仲良くしてたから?寂しかったからってなんなんだろう。寂しかったら浮気してもいいのか、男と寝てもいいのか、キスしてもいいのか、しゃぶった口で恋人にキスしてもいいのか。
エマの怒りはそのとおりだと思う。男女で男に浮気されるよりもキツいなと思った。レズビアンであることを否定されたような気分になるんじゃないか。運命の愛だと思ったのにあっさりと裏切られて、その傷をぶつけるすべもない。アバズレと罵っても家から追い出してもついた深い傷はなにをしても消えない。致命的に傷付けられたのにそれでも愛してるから許してしまう。
愛って難しいな。いろんな形があると思った。3年後のエマは柔らかい愛情に包まれて、幸せに暮らしている。でもアデルのことは忘れられないし愛してる。狂ったように求め合いアデルしか見えなかった日々は確実にエマの中で生きていて、その愛は一生死ぬことはない。展示会で会ったときにアデルに向ける瞳が愛を物語っているのがひどく切ない。
エマの心の中だけではなくてエマの作品にもアデルが生きている。どれだけの大きな愛なのだろう。自分はこうも人を愛せるだろうか。愛せないだろうな〜、無理だな。
愛の在り方にも様々な形があるけれど、これだけの大きな愛を抱えて一生を生きていかなければならないことは二人にとっていいことなのか悪いことなのか全くわからない。私も燃えるような狂うような愛を体験すればわかるのだろうか。

アデル、ブルーでは愛を口で語らない。背中や体や目で語る。そこがすごくすごく好きだなと思った。想い合っている二人の中ではそれで十分なのだろう。
だから浮気のあとに愛してる!て言ったりだとか、再開したときに愛してる?って確認をとらなきゃいけなかったんだろう。分からないから。二人の思いが通じ合っていないから。めちゃくちゃ酸っぱいな。